インタビュー

インタビュー 02 高橋伸(cafe style bar VIVID)

就職、公務員になり役場へ


役場に入って最初は総務課っていうところに所属になりました。総務課の総務係っていうところで、簡単にいうと私は雑用みたいな事をしていんたんですけれど、そこの係の経験者を見ると、皆様優秀で将来有望って感じでした。

高卒だけど、良い所に入ったのかなーって思って働き始めました。

自分の中の違和感


しかし、仕事してみるとなんかモヤモヤとするし、元来わがまま気質だし。自分を表現したいタイプなので。なんかこう組織に入った時に道はあるは、レールは敷かれているような感じで。

自分を出せない事に何かモヤモヤを感じているし。ただ自分が「浮いてる」という訳でも無いし。仕事の満足感は、一所懸命やっていたから無い訳では無いんです。職場の仲間と、スキーもしたし、野球部にも所属したし、バトミントンもしたし、色々やってはいるんですが、何かこう自分の気持ちとは違うような感じがしていたんです。

高校時代からですが、バイクも好きで乗っていて、ツーリングに行ったりとかレースに出てみたりと、仕事もしっかりやる分、遊びもしっかりみたいな、生活をしていました。

自分で何かをやる面白さ


ただそんな中にも違和感を感じ、2年くらい勤めた20歳くらいの段階で、私もう30歳くらいで辞めます。って宣言しちゃったんですよ。

自分で何かやってみたいなーって事を口に出しながら仕事してたんですね。

その後に教育委員会の社会体育係っていうところに配属になって。総合体育館で5年間勤務したんです。普通は総務課に務めた後って税務課に行くんですけど。何故か私だけ違うルートで。笑

確かに、指導者の資格も取らされていましたが…

体育館に移動になってからは紫波町の方に卓球を教える機会がすごく多かったです。5年間勤務した最初の2年は雑用みたいな事だったんですけど、その後3年間は紫波町のスポーツ事業を企画して運営していくっていう仕事でした。

スポーツに携わる人達とも交流が増えて、そこで自分が企画して何かをやるっていう経験をしました。

だいたい公務員の仕事っていうのは、前年の仕事を今年もまた。っていう繰り返しの感じなんですけど、

そういうのが馴染まない性格の私は、自分なりに工夫して企画運営する楽しさっていうのをこのスポーツ事業に携わる事で知っちゃったかな。って思います。

その後は紫波町の勤労青少年ホームっていう場所で。そこでも自分で企画して実行するような仕事をさせてもらいました。

今までとは違う事をしたいと思って、カヌーやパラグライダー、ジェットスキーの体験教室をやったりだとか。青少年ホームの会員と各地のゴムボート川下りに参加してみたり。

様々な事を繰り返す中で、やっぱり自分には何かを企画したりするのが合ってるなーって思ったんです。

青少年ホームが3年で異動が通例なので、この機会に退職しようと思いました。当時結婚もしていたので、それぞれの両親に言いに行く訳ですよ。辞めたいと。

自分のやりたい事をやってみますと。

自分の気持ちと周りの反対


やりたい事は、若い時はバイク屋関係の仕事だったりしたんだけれど、その時には自分で飲食店をやってみたいという事に変わっていました。

映画の「カクテル」に憧れていましたし。最初に口にしたアルコールがカクテルでした。新婚旅行はカリブ海のバハマにも行って来ましたよ。もしかしたら、これが人生最後の海外旅行になってしまうかもしれませんが。笑

さて、辞める話を両親にしたら、まあ反対される訳です。義理のお父さんにも「せっかく公務員なのに何で辞めるんだ」って。

お前がサラリーマンだから嫁に出したのに何故辞めるんだって。猛反対される訳です。

その時はその反対を押し切って辞めるっていう事が出来ませんでした。役場を続けるんです。でも気持ちがもう、モヤモヤで。こんなんじゃダメだよなって。人生一度きりだしなって思って。

その後別な部署に移ったんですが、異動してまもなく直ぐに「この一年で辞めます」って言ったんです。どうしても自分の考えてる事と夢を諦めれなくて。

すごく忙しい部署で、残業もかなりあったんですが、この1年間だけだと思えば我慢できました。

しっかり仕事は最期までやりたかったので、次の人に迷惑にならないようにしようって思って、一年間今まで以上にしっかりと働きました。そして宣言した通り30歳になる前に辞めました。

その時子供も一人居たし、辞めた時には2番目の子供がお腹に入ってました。

いざ退職へ


そんな状況でしたが、奥さんと結婚する時には、俺、将来役場は辞めるよって言っていました。

奥さんは反対はしなかったんです。奥さんの実家は飲食店をやっていて、そういうところで育ってき人だったし。

自身も調理の専門学校に行って、その後に仙台のホテルで務めたりと、サービス業をやっていたので、そういう事に抵抗が無かったみたいですね。

小さい頃からのわがまま気質が続いて、そこでも押し通しちゃいました。

でも、その時から一番つらい思いをしているのは、うちの奥さんかもしれません。嫁の立場、子育て、仕事と精一杯にやってくれています。

そして、何より私の一番の相談相手で、応援者なんですから、本当に感謝しています。

公務員という仕事はやりがいはありました。やりがいはあったんですが、自分の性格とは違う離れた所にあったと思います。

役場に勤めてた時代には色々な事をやったし、自分の趣味は多趣味で、どこか器用貧乏じゃないけど、何でもこなせるけど、全部一流でもないなと思っていました。

そういうところにも嫌だなって思う気持ちもあり、何か1つに向かって一生懸命にやりたいなって思ったのも確かだなと思います。

退職後、そこから自分がやりたい方向に進んでいきます。

役場を退職し、次の道へ


3月で辞めたんですが、そこまできっちり仕事をしていたので、その時実は次のアテは無かったんです。辞めてどうしようかなと思い、近くだと仙台で働くのが良いかなって思い、仙台を訪れるんですが、仕事が決まって無い状態で行ったのでアパートが借りられなかったんですよ。

実際面接を受けるって決めた事もあったのですが、ドタキャンした事もあります。「仙台無理かなー」って断念しました。

大きな夢は抱いていたけれど、まだ小心者だったんです。役場は辞めたけれどもまだ飛び込んでいく勇気が足りなくて。

仙台を見終わった後にどうしようかなと悩みました。当時一関市に、世界一になったバーテンダーさんが、市内のホテルに勤めてたんですよ。次にそこを調べて訪ねます。「弟子にしてくれませんか?」ってお願いしたんですが、当時その方はそのホテルの社員の立場で、今は募集して無いよ。って事でした。北上市内にある知り合いのバーを、3店舗を紹介してもらったんです。その紹介してもらった店舗全てを訪ねるんですが、「今不景気なんだよねー。」って断られてしまって。まずい! と思いましたね。

俺どうしようかなーと。

その後も北上で引き続き働くところを探していて、7月に北上市の第3セクターが運営する地ビールのレストランがオープンする。という情報を得て、そこで働いてみたいと思いこれはチャンスだなと感じました。

ただ、まだ時期が先だったので、他のアルバイトもしなきゃと思い、北上市内で車を走らせます。そしたら焼肉屋さんの前に看板がありアルバイトの募集をしていました。

事情を話して、7月には他のところで働きたいんだけれども、3ヶ月だけ働かせてくれませんか?って言ったら雇ってくれる事になりました。

同時に市内でアパートを探していたんですが、ある不動産屋さんが俺に任せろと言ってくれて。オーナーは東京に居る人だけれども、責任持って俺が借りてやるから。って言われました。助けられました。バイト先が決まって報告した時はとても喜んでくれました。

続き ▷第3話『幾多の修行を経て、店舗開店へ』


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