インタビュー

インタビュー 01 菅原治郎(カレーだJ)

wonderfutures 01

岩手で活躍している方々のインタビューを掲載するコーナー「wonderfutures」第一回目のゲストは岩手県花巻市で活躍する「カレーだJ」こと、菅原治郎さん。その半生に迫る、ロングインタビューです。

菅原治郎(カレーだJ

岩手県、花巻市を拠点に活動するカレー屋『カレーだJ』こと菅原治郎さん。

キッチンカーで県内を走り回り、クラフト市やイベントなどでカレーを販売し続けています。

活躍の場を拡大する中、2018年7月に待望の固定店舗『海の家・ダイヤモンドヘッド』をオープンしました。

内陸なのに海の家?

花巻市のR283沿いにあった20年使われていない元スナックの建物を改装し、再オープンさせました。

しかも内装は元大工の経験を活かし、基本的に一人で1年の歳月をかけ、手がけています。

花巻に海の家を作ろうと思った理由、そしてその原動力の秘密に迫ります。『ダイヤモンドヘッド』オープンの先に何を見るのか?

2018年7月、オープン間近に行ったインタビューです。

第一話『花巻に海の家を』

オープンを間近に控えた心境について


目前なので、固定店舗が初めてなのでドキドキしています。

なんかその、一年間作っていたんですけど、やるぞーっていう軽い意味じゃないんですけどモノ作りが好きなので新しい何かが出来るっていう。

モノが生まれるって瞬間をずっと描いて来ていたので、これがまさかここに本当に出来るって言う事にドキドキしています。僕もまさに第三者的な感じです。

もちろんお客さん来てくれるのかなーという部分でかなりドキドキしていますけど、それよりも本当に出来るんだっていうドキドキ感ですね。

花巻に海の家を


なぜ海の家かというと、シンプルに海が好きなんですよね。好きだから海の家を造りたいと思っただけなんです。

海が好きになったのはビーチボーイズってドラマを見た事が全ての始まりで。今までやっていたカレーだJもビーチボーイズを見ていなかったら無かったと思うんですよね。

ただ、内陸じゃないですか。花巻って。

花巻に海の家をってコンセプトで一年間作ってきたんですけど、海の家っていったら海の目の前にあるって思ってるじゃないですか、ビールを飲んだり、かき氷を食べたり。百人いたら百人そんな事はわかっていますよ。笑

つまり何が言いたいかというと、花巻に海の家がないって事に気づいたんです。これはおかしいなと。無いなら作るしか無いと思ったんです。

海が無いと海の家を造っちゃいけないのかって。

そこで視界は一気に狭まってますよね。

世の中のヒット商品とか、スマホとかまさにそうですけどだれも想像した事が無い事をやって結果大ヒットなんですよ。

別に僕は大ヒットしたいからやっている訳では無いんですけどつまり固定観念を取っ払いたいんですよね。

海が無いのに海の家を造るって、極端な話海の家じゃなくても良いんですよ。笑

この話を誰かにするとリアクションはポカーンって感じなんですけど、僕の中ではニヤリとする瞬間だったりします。笑

おそらく花巻で海の家をオープンさせるって初めてだと思うんです。海の家を作る事で、固定観念にとらわれちゃいけない事を発信していきたいですね。

目の前に有る事がすべてじゃないんですよ。無いなら作れば良い。

やっぱり熱い気持ちって、僕もアルバイトしてた時の経験でもそうですけど

熱量が違うんですよね。楽しい事に対する熱量は。


高校卒業から最初の就職


僕、高校卒業して18歳の時に就職したんですけど。専門学校とかどこにも行かなくて。その時はやりたい事もそんなに無かったので。大工になりました。

その時はただ『見習い大工』ってかっこいいなって思って。

高校の就職先で工場か大工かみたいな感じだったんです。

工場で働くのはなんかイメージ出来なくて。それで大工さんになりました。

始めは覚える事も多くてそれなりに楽しかったです。

1年ぐらいたった時に、人間関係に違和感出てきたんですよね。

やっぱ、わざわざ嫌味ったらしい方っているんですよ。笑

当時職場に絶対1人は嫌な人がいるみたいな洗脳が社会的にもあって。

その時は自分もそう思ってて、それはしょうがないって思ってたんですよ。

でもやっぱ気持ちは嫌なんですよ。

その時は自分のキャパシティも狭くて、世界も見えていなかったです。

花巻をちっちゃい世界でしか見てなかったんですよね。岩手も出た事が無かったので。

逃げられない状態でした。会社を辞めるって言う勇気も無かったですね。

それからさらに、大工を続けて1年、2年経って、胃もおかしくなってきますよ。笑

そこで思ったんです。このままさらに3年、4年、5年。10年。

このまま同じ生活なのかなと。同じ繰り返しなのかなと。

やる気なかったので大工技術も全然覚えれなかったです。笑

とにかく八時から五時半まで働いて、給料を貰う。

月曜日から土曜日まで仕事をして、土曜日の夜は友達と飲みにいって。

日曜日にゆっくり休む。

そして日曜日の昼過ぎに起きてから、明日の月曜日からまた仕事かと思う。

その繰り返しなんですよね。月曜日から日曜日まったく同じ繰り返し。

さらに日曜日仕事だと、休まずにまた一週間か。みたいな。

つまり、休みの為に働いているって思ったんですよ。

このままじゃいけないなって思ったんですよ。

でも、頭でわかってても辞める勇気が無いんですよ。

その時って、辞める=ダメ人間みたいな。周りの目もあって。

根性無しみたいな。

辞めたら仕事無いよみたいな。

人生を変えた本との出会い


そんな気持ちでふらっとブックオフにいったんですよ。

お店のワゴンにあったんですよ。

『love&free』放浪しちゃえば?って帯があって。

その言葉を見た瞬間に。

こ、これは!って思ったんです。この言葉だったのかみたいな。

今までの悩みに、その言葉で一気に気づいたんですよ。

俺は放浪すれば良いんだと。

これを見た瞬間にこうしてはいられないと思って。

そこから辞める準備をしました。

貯金も全然していなかったので、そこからは大工道具を買えと言われても全く買わなかったです。

とにかく放浪に行く為だけの貯金をしました。

そしてある程度貯まったら言いました。辞めたいと。

社長もびっくりですよ。僕も初めてだったので緊張したんですけど、ちゃんと伝えなきゃと思って言って。

それで辞めて沖縄に行きました。

ココからでしたね。人生が変わったのは。

結局、岩手を出るとか仕事を辞めるとかじゃ無いんですよ。

楽しんでやってたらそれで良いんですよ。楽しくないのにぐちぐち言ってる自分がダメだったんですよ。

周りがダメとか会社がダメとかじゃなく、どこだろうと楽しくやってたら最高なんですよ。

楽しくやってる人は、どんなに給料が安かろうが最高なんですよ。

自分が楽しくない事をぐちぐち言ってる事が人生をつまらなくしてしまっているって気づいたんですよ。

そして沖縄へ


放浪しちゃえばの本に、こんな村があるって紹介があったんですよ。

自給自足のキャンプ場があるって。

高橋 歩さんって人が書いてるんですけど、こんな本を書いた人はどんな人なんだろう。

俺の心をシンプルに動かすこの人はどんなひとなんだろう。

その人が作ったキャンプ場があると知って。そこに行けばその人に会えるかなと思って。

会えなくてもここに行けば何かがあるだろうと思って。

それで沖縄に決めました。


沖縄での生活


沖縄ではキャンプ場を作るボランティアに参加してました。

『ビーチロックビレッジ』という場所で。

三食と寝床がついて、さらに泡盛が飲み放題っていう。笑

ボランティアだけで30人以上の人達が集まってました。

そこに、グループが有ってそこでは『隊』って呼んでたんですけど、

食料隊、建築隊、デザイン隊、ゲストハウス隊みたいな感じで分かれていたんですね。

建築隊は大工の仕事はトラウマで気が進まなかったんですけど、棟梁が面白い人で、誘われて入りました。

建築は嫌だなって気持ちで始めたんですけど、そこで皆協力しあって作っている感じで、

わからない事は聞けば教えてくれる感じで。めちゃくちゃ楽しかったですね。

僕が参加した時にはトイレ作りっていうミッションだったんです。

建物から自分たちで作るっていう。

そこで1ヶ月経って一度岩手に帰ったんですけど、

もともと親にも1ヶ月で帰ってくるとは言ってあったので。

でも帰ってすぐに、沖縄の夢も見るし、沖縄で過ごした日々は良かったなと思って。

頭の中が沖縄だらけだったんですよ。また行きたいなと思って。

もうまた行くしかないなと思って、親にもまた行ってくるわ。って言って。笑

3月に最初に行ったんですけど、5月にはまた行って。

その時のボランティア内容が海の家を作るっていう内容でした。

一日三食出るのでお金もほとんどかからなかったんですよ。

携帯すら止めて沖縄に行ってました。

そこは山の奥にある場所だったので、テレビもまったく見ない生活でしたね。

沖縄から帰り、関東へ


沖縄に行って手に入れた気持ちというのは、『やっぱり俺は自分でやる』っていう。

何かをする。っていう気持ちを手に入れて帰って来たんですよ。

沖縄には半年くらいいました。3月に行って9月に帰って来ました。

岩手に帰って来たんですけど、絶対何かしてやるって気持ちはあっても何をして良いかわからなくて。

何かしたい、でも就職はしたく無いみたいな。

でも何をして良いかわからない、みたいな。

とにかくお金が無いからまずは貯めようと思って。

一旦、岩手で働くのはいいやと思って。

給料高くて、海の近くでどこが無いかなって職安で調べたんですよ。

静岡の働き口を紹介されて行ったんですけど、こんなところに一人で行ったら心折れるなと思って。笑

一日で帰って来ました。笑

面接して、『来る気になったら電話して』って言われて。よくよく考えたら無理かなーと思って。

そんな事してたらもっとお金が無くなって。

やべーっ!みたいな。笑

また岩手に帰って来て職安に行って

調べたら千葉県の仕事が出て来たんですよ。

寮がある会社で、月2万で住めて給料から引かれるっていう条件の所で。

よしここだ!と思って行ったらビックリですね。アパートというかプレハブみたいな場所で。笑

もうとにかくボロボロで。

着いた瞬間、帰ろうかなって思って。笑

いや、ダメだ!って思い直して。

ここは頑張るしか無いって思って。

しかもその時の所持金が7千円だったんですよ。笑

そもそも帰れなかったんですよね。お金が無くて。

だからお金が無くて良かったのかもしれないです。

ガソリン代で帰れるか帰れないか。

いや7千円で千葉から帰るのは無理か。笑

ここで頑張るしか無いなと思って。

2年働きました。

23歳の時から25歳までですね。

それは土木の仕事だったんですけど。

理由は太陽の下で働きたいって思って。

大工仕事は4年間やっていて、嫌な記憶しかなかったので。

大工以外がしたいなって思って。

土木だったらスコップ持ってるだけかなと思って行ったらめちゃくちゃ難しくて。めちゃくちゃ頭使うんですよ。

怖い親方とかもいるんですけど、力仕事頑張ってやるしかねーと思って。

頑張ってやってたら、高い所から落ちるっていう事故を起こしてしまって。

現場には行けなくなってしまったんですよ。

工場での1年間


そしたら工場で働く事になったんですね。

18歳の時も思ってたんですけど、工場は嫌だなって思って。

また毎日同じ繰り返しに戻ってしまう気がして。

でもそう思って始めたら、めちゃくちゃ楽しかったんですよ。笑

それはなんでかと言うと、

今までは日本人としか働いた事無かったんですよ。

そこに入ってビックリだったんですけど、日本人は僕だけだったんです。

そこには4カ国の人達がいたんですけど

ブラジル人、中国人、ペルー人、ガーナ人。

僕入れたら日本で5カ国ですね。

この環境がめちゃくちゃ楽しかったんですよ。

もうとにかく楽しくて、

そこではメッキを作る仕事をしていたんですけど、とにかく給料が良くて。

まあ結構危険な仕事ではあったんですけど。

そこで1年がっつり働いて、そこでお金を貯めようと決めて。

だから千葉の2年間はお金を貯めるって為だけに頑張ってましたね。

インドへ


千葉に居た時も行きつけのバーには行ってたんですよ。

そこは岩手にいる時と変わらずですね。

下北沢とか東新宿とかによく行ってました。

その時行ってたバーの友達が「じろーと一緒にインド行ったら面白そうやなって。」言われて。

僕もインド行きたいっす!って言ったら

一緒に行くか!ってなって。笑

じゃあ僕2010年に仕事辞めますってその時に約束して。

そして仕事を辞めてインドに行きました。


インドでの生活


インドに行ったのは26歳の時でした。

日本人の居るゲストハウスに行くって事は決まってました。

日本人がインドに学校を作るっていう活動をしている場所でした。

皆んなからインドに行くなら本は見ない方が良いって言われてて。

事前情報無しで、インドに着いた瞬間の感覚を味わった方が良いって言われてたんですね。

なるほどって思って。一応、地球の歩き方っていう本は買って持って行ったんですけど

1ページも見ないまま飛行機に乗りました。

そしたら、一緒に行ったバーの友達、サトシさんって言うんですけど。

飛行機がインドに着く3~4時間くらい前に、インドに着いたら別々に行動しようぜ。って言われて。笑

別々に行動した方が面白いやろ!みたいな理由で。笑

それはさすがに無理でしょ、って思ったんですけど、ここで断ったら一生皆んなに言いふらされると思って。笑

それは嫌だと思って別々に行動する事にしました。

だから、買ってあった地球の歩き方を着く直前に開封して。

読んだんですけど全く頭に入らなっかたですね。

結果的にはこの一人で行くというミッションはやって良かったですね。

タクシーを使うのか、電車を使うのか、から自分で考えるっていう。

色々な言葉を使って人に聞いたりして。

インドってめっちゃデカイので。近いって言っても遠いんですよね。

ゲストハウスに行くのにも3日かかりました。笑

途中、ガンジス川を渡らなければならなくて。

船を漕ぐ仕事をしている人が居るんですね。

当時川を渡るのには100ルピーあれば良いって聞いてたんですけど。

1ルピーが3円くらいでしたから300円くらいですね。

川を渡る値段を聞いたら3000ルピーって言われて。高い!って思って。笑

交渉して2000ルピーまでは下げたんですけど

まだ高いって思って。笑

でも待てよって思って。

日本円で6000円。6000円でこの目の前のガンジス川を渡れるなら

安いじゃないか!って思って。

2000ルピーでお願いしました。

ゲストハウスについて、「そういえばいくらでガンジス川を渡りましたか?」

って話になって。

2000ルピーです!1000ルピーも安くしてもらいましたよ!って胸を張って言ったら。

あそこ5ルピーで渡れるんですよ!って 笑

でもインドでは、自分がその価格が妥当だと思ったら騙されては無いって事で。

カレーとスパイスとの出会い


インドから帰ってきて岩手に帰ろうかなと思ってた時に、下北沢に通ってたバーのマスターに、岩手に帰って何するの?って聞かれてたんですよね。

その時自分は、いやーまだ何するかわかんないんですよね。みたいな感じで。お金は貯めてたんですけど。

そしたら、その時のバーのマスターが、じゃあ俺んとこで働けば良いじゃん。って言ってくれて。

これが飲食店の始まりでした。

そこから働き始めるんですけど、この時期に沖縄で出会ってた友達がたまたま東京に来てて再会したんです。

その友達はめちゃくちゃ美味しい料理が作れて、軽い気持ちでスパイスカレーって作れるものかね?

って聞いたら作ってくれて、コレがめちゃくちゃ美味しかったんですよ!

コレだっていう感覚があったんですよね。カレーとスパイスに出会いました。

その後、バーで働いてる時にカレーの神と呼ばれる人をマスターから紹介してもらって。

通称デッツさんという人なんですけど。

インドにスパイスを買いに行って、帰ってきたところをたまたま紹介してもらったんですよ。

今でもたまに、新作のカレーを作るときには相談したりするんですけど、

何でもかんでも教えてくれるって感じではなくて、ヒントを教えてくれるって感じなんですよ。

だから、最初にカレーを覚える時に、自分で考えながらカレーを勉強できたので、自分の味が作れたって思います。

カレー屋さんで働いた事もなかったですし、料理をしてた事も無かったので。

そこからまた2年くらい働くんですけど、その頃から新天地は花巻って決めてました。

岩手へ、キッチンカー販売という選択


そして岩手に帰ってきてからですが、初めからキッチンカーというアイディアがあった訳では無かったんです。

やっぱりカレー出すお店なら固定店舗かなと思って、物件を探してました。

探してて、良いと思った物件があって話も進んでたんですけど、途中で大家さんから連絡が来て、屋根の補修とかで高額なお金がかかるって連絡があって話が流れてしまったんですよ。

なにーって感じでショックではあったんですけど。

その時バイトしてた花巻のバーのオーナーに、カレーならキッチンカーってどう?

店舗より予算も少なくて、始めやすいんじゃない?って勧められて。

確かに!みたいな。笑

そこからキッチンカーの情報を調べまくったんですよ。

震災もあった時期だったので、キッチンカーだったら、そういう時に自分からカレーを届けに行けるかもしれないって思ったりもして。

コレだって思いましたね。

だから店舗の話はダメになって良かったなと、思っています。

結果論ですけどね。

キッチンカーって、自分がお客さんがいる場所にあちこち行けるので、放浪してきた自分の人生にあってるなと思いました。

とは言え、キッチンカーを用意したのは良いものどこから始めて行けば良いかはわからなかったんですよ。

その時はまだ知り合いもたくさん居た訳でも無かったので。

最初はたまたま地元のお祭りに声をかけてもらって、

出店したところからでしたね。

そのイベントでお客さんから、今度うちでもやってくださいって誘ってもらえたりして。

そのイベントに参加すると、また他のお客さんから、誘ってもらえて。

というのを1年間繰り返してました。

1年やると、だいたいの1年間のスケジュールが見えてきたんです。

でもイベントだけだと基本土日しかないので。

平日も働くにはどうしたら良いかって問題がありました。

最初はスーパーの前とかで出せば良いのかなって思って探したんですけど中々見つからなくて。

カレー出せる場所がどこもねー!って。

その時に思い出した事があって。前にイベントで知り合った方に、決まった場所が無いなら、うちに使って無い空き地があるよ。

って声をかけられていた事を思い出しまして。

連絡してみたんです。そこで借りれたのが今のルート283沿いの土地です。


ここで始める事が出来たのは大きかったですね。

そこから平日はルート283沿いでキッチンカーを停めて販売してました。

さらに、そこの土地に20年使われて無かったスナックの空き家があって。

そこも借りれたら良いなと思っていたら、色々な縁もあって借りれる事になったんです。

海の家だから七月にオープンさせたいと思って、一年間ひたすら一人で作りこむ事にしたんです。

だから、内装だったり全ての箇所に妥協は無いんです。笑

今後について


ダイヤモンドヘッドのオープンがゴールという訳では無くて。

この場所にカレーだJのテーマパークを作ろうと思ってます。

もう形にしたいイメージや作りたい物が沢山あるので。

ダイヤモンドヘッドもその一部。まだまだ広がります。

そして、固定店舗はありますがキッチンカーでもイベントなどには出店するつもりです。

楽しいが原点


全てにおいて、何より大事にしているのは、『自分が本気で楽しんでいないと、お客さんを楽しませる事は出来ない』って事です。

コレは綺麗事では無いと思うんです。

楽しいが原点です。楽しく無いとダメなんです。